コンサルティング会社で経営を学び経営者、投資ファンド代表へキャリアアップ

Vol.02

コンサルティング会社で経営を学び経営者、投資ファンド代表へキャリアアップ

シティック・キャピタル・パートナーズ・ ジャパン・リミテッド

日本代表中野 宏信氏

公開日:2012.10.15

インタビュアー 丸山

エンジニアからMBA留学を経てキャリアチェンジし、日本における黎明期の投資ファンドや更生会社の経営者、産業再生機構などを経て現在、中国系ファンドの日本代表を務める中野宏信氏。その時々の時代における先端的な仕事ばかりできる理由は、果たしてどこにあるのだろうか。

Message

MBA留学を契機としてコンサルタントへキャリアチェンジ

丸山
中野さんと初めてお会いしたのは1989年、米国のペンシルバニアでした。当時、リクルートで採用業務を担当していた私はMBA留学中の中野さんを採用すべくコンタクトを取ったのですが、留学後、中野さんは戦略コンサルのCDI(コーポレイトディレクション)に入社されました。多くの選択肢の中からCDIを選択した理由は何でしょうか。
中野
それを説明するには大学時代まで遡らないといけません(笑)。私は工学部金属工学科の出身で、卒業生の大半は鉄鋼会社や自動車メーカーに就職していました。結果として私もトヨタ自動車に就職したのですが、エンジニアを一生の仕事にしようとは思っていませんでした。トヨタを選んだのは海外駐在やマーケティングなど、エンジニア以外のオポチュニティがいろいろあったからです。しかし実際にはエンジンやサスペンションなどを鋳造する技術開発の部署に配属されました。
当初は周囲に馴染んで働いていましたが、次第にムクムクと「これは自分が一生やる仕事かな?」という思いが湧いてきました。私はエンジニアリングよりもビジネス、経営に関心があったからです。また、将来を考えるとトヨタという大きな組織のなかで、うまくいけば部長、取締役になって、その後は関連会社の役員や社長になって終わり、という姿がリアルに想像できました。それが幸せという人もいるでしょうが、私はそれで一生を終わりたくないと思った。それで5年務めてトヨタを辞め、自費でMBA留学しました。
留学の目的は、MBAを契機としてビジネスや経営の方向にキャリアを進めていくことでした。明確にやりたいことがあったわけではありませんが、エンジニアのバックグラウンドでもMBAを取得すれば他の道へ行けるチャンスが広がるし、英語の習得や人脈の構築もできる。今でもあの二年間は正しい選択だったと思います。ただ、留学した大学は卒業後、金融方面に行く人が多いところでした。私はビジネスや経営をしたかったので、それらをしっかり勉強できるコンサルティング会社を選びました。CDIに入ったのは、メンバーの人たちとケミストリーが一番合ったからです。当時はとても勢いがあり、一番熱心に誘ってくれた。他社と迷うということはありませんでしたね。
丸山
実際にCDIに入社されてみて、経営の勉強になりましたか。
中野
非常になりました。コンサルタントが何を売っているかというと、一つは「提案」です。いただいたテーマについて調査、分析し、その事実や結果に基づいて企業がどう問題をとらえ、どうすべきかのアイデアを売るわけです。しかもそのアイデアはきわめてロジカルでなければいけない。そういう仕事なのでコンサルタントに求められる能力はロジカルに物事を考える力、きちんと事実を調査、分析する力、そしてプレゼンテーションの力です。ところが正直、それまで私は物事を本質的に考えるトレーニングを積んでいませんでした。物事を深く突き詰めて考え、ロジカルに組み立てて自分なりの結論を出し、うまく相手に伝えていく。コンサルタントになって初めて、そういう訓練をしっかりできました。この経験は大きかったと思います。
また、いろいろな業種の経営に関する問題を与えられ、それを解くことによって、机上ではあるけれど経営についてよく理解できるようになりました。そして何より、いい仲間が多かった。後に産業再生機構に入ったのもCDIで知り合い、当時産業再生機構COOを務められていた冨山和彦さん(現経営共創基盤代表取締役CEO)とのご縁があったからです。ここで会った人とのご縁がいま、私のパワーになっています。

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オーナー企業での教訓を活かし投資ファンドへ

丸山
CDIの後は、あるベンチャー企業へ転職されました。どのような経緯でしたか。
中野
この転職は知人の友人のヘッドハンターの紹介です。コーポレイトディレクションに5年いたので、そろそろリアルなビジネスに戻りたい。経営を机上で勉強できたのでそれを活かして自分で経営をしたいと考えていた時期に、ちょうど声をかけてもらいました。そこでは本業とは別の事業を新しく子会社を創って始めるところで、ベンチャーであることと、トップの補佐役というマネジメントに近い位置で仕事ができる点に魅力を感じました。
ここでの経験は、CDIとは別の意味で勉強になりました。「超」の付くオーナー企業でかつ若い会社でしたから、社内はいろいろな人の寄せ集めのようなところがあって、その難しい面を沢山見ました。オーナー企業では当然、トップの影響力が非常に強いため、そのビジョンや方針にしっかりした芯が通っていないとブレてしまう。加えて、寄せ集め的な組織ではムダが多く、軋轢が生じやすい。
丸山
このベンチャー企業は一年でお辞めになっていますが、やはりそういったことが影響したのですか。
中野
CDIからベンチャーに移ったときは正直、あまりよく考えていなかったんです。学んだことはありますが、キャリアという視点で考えるとこの転職は、選択として間違っていたと思います。なので次にどうするかはじっくり考えた上で決めないといけない。辞めた後は半年以上、ぶらぶらと充電していました。人に会ったりいろいろな情報をインプットしながら、自分の頭のなかを整理しました。そんな時期にMBA留学で同級生だったヘッドハンターから声がかかりました。彼のクライアントはアドバンテッジパートナーズというファンドで、代表パートナーのリチャード・フォルソムもMBAの同級生でした。
「リチャードのところが人を探している。今度新しいことをやる。それはファンドというものだ」
当時、ファンドはまだ日本になかったので、ヘッドハンターの言い方はそんな風になりました。私も不勉強でよくわからなかったのですが、実際に会って話を聞いてみると「面白い」と思い、入社することになりました。
丸山
何が面白いと思ったのですか。
中野
株主として経営に直接関与できることです。オーナー企業の意思決定がオーナーの一存で決まるのは株主だからです。オーナーが優れた見識とリーダーシップの持ち主であれば素晴らしい会社になるでしょう。しかし、多くのオーナー企業の実態はそうではなく、往々にしてビジョンや戦略がふらつき、そのたびに下の人間は苦労します。だったら自分が株主になってしまえばいいわけです。また、コンサルタントは経営戦略をつくる訓練をしていてアイデアはいっぱいありますが、自分で実行することはできない。ところがファンドという立場で株主になれば、自分たちの考えたアイデアを投資先企業に実行してもらうことができる。実際にはとても難しいことなんですが、コンサルタントの立場で戦略やアイデアをつくり、それを株主として実行できる。投資がうまくいけばリターンも得られる。そうした点が面白いと思いました。

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「経営は怖い!」

丸山
アドバンテッジに入られた頃に中野さんとお会いしたとき、「経営者の案件が出るかもしれない」というお話をいただきましたが、最終的に投資先の富士機工電子にご自身がトップとして行かれましたね。
中野
富士機工電子は会社更生法を申請した会社で、当時はファンドがはじめて法的整理を行った会社のスポンサーになった案件として注目されました。社長ができる人を探したのですがなかなか見つからず、自分が社長になりました。流れで経営者になったわけですが、よく考えるとこれは自分がトヨタにいた頃からやりたかったことなんですよね。
丸山
ご自身の思いがいろいろなものを決断の場面に引き寄せたんですね。実際、経営者になったご感想はいかがでしたか。
中野
倒産した会社の社長は辛いですね。更生計画は大幅に短縮して終結し普通の会社に戻ったのですが、その後が大変だったんです。富士機工電子は電子部品をつくっている会社で、お客様はパソコンメーカーやプリンターメーカーが多かった。そこにITバブルの崩壊が直撃し、パソコン関連市場に急ブレーキがかかりました。お客様からのオーダーが3割、4割となくなっていきましたから大赤字です。いつ回復するのか目処が立たないまま半年、1年が過ぎ、回復するまでに1年半から2年かかりました。あのときはリストラも行い、本当にしんどかったです。
ITバブルの崩壊は経営を直撃しただけではなく、ファンドの投資という点でも厳しい場面を迎えました。最終的にはある大企業に富士機工電子を買収していただいて、私の任務は終了しました。ただし、買収された後も1年間私が社長をやるという条件で。先方にすぐ社長に出せる人がいないための措置でした。この成功とも失敗とも言えない社長経験は、その後の自分に大きく影響しています。「経営は怖い!」と。
丸山
経営にはいろいろな怖さがあると思いますが、どのような怖さでしょうか。
中野
事業を選ぶことの怖さです。崩壊した市場でうまくやれる人は誰もおらず、そうなったらひたすらリストラして景況が回復するのを待つしかありません。そして、私は投資家として崩壊の起こり得る波の激しい市場を選んでしまった。このことについてはいろいろ考えました。事業によって安定している市場もあれば波の激しい市場もあり、時代状況の変化もそこに大きな影響を与えます。それをよく見極めて事業を選ばないと大変なことになる。この経験からは本当に多くのことを学びました。
丸山
そしてファンドに戻り、産業再生機構入りされましたね。
中野
成功とも失敗とも言えない経験をしてファンドに戻ったわけです。自分のなかで整理のついていないものを抱えながら、次はどうすればよいか。そんなタイミングで産業再生機構の話をいただきました。私は自分が経営者として企業再生に取り組んできましたから、その経験を活かして「今度は失敗しないぞ」と思いました。
丸山
もう一回勝負しないとスッキリしない、と。
中野
「そうです。これで終わらせるわけにはいかない。当時は「国を再生するには銀行と企業を再生しなければいけない」と小泉政権が法律をつくり、金融庁を動かし、産業再生機構を設立したところでした。私は倒産した会社の再建をやっていたのである意味、時代の先取りをしていたので、この知見を活かそうと思いました。私が富士機工電子で株主として、社長として企業再生に取り組んだのは5年間。特定の1社に深く関わったわけですが、企業再生にはいろいろなパターンとやり方があります。1社やっただけでは企業再生がどういうものかはわからないので、他にもどんな企業再生があるのか勉強したいという思いもありました。
丸山
どんな企業の再建に関わりましたか。
中野
金門製作所、大京、カネボウ、三景、スカイネットアジア航空です。どれも企業再生ですが、病気が違えば治療の仕方も異なるように、再建のやり方も異なります。産業再生機構ではいろいろな企業再生のパターンを見ることができました。
(続く)

※インタビュー内容、企業情報等はすべて取材当時のものです。

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